コラム/建築革命宣言!
第17回
ビーアイジーグループ代表 青山洋一の挑戦(3) 山中省吾 2000.02.14
独立・代行運転を始める
友人のすすめもあって、独立を決意する。社長と専務二人だけのスタート。何をやるかは、まだ決めていない。見通しも持たないで始めた。二人で、何が儲かるか朝まで議論した。昭和62年、世はバブル景気はなやきし頃。元手を欠けずに稼ぐ方法は?考えに考えた挙句、飲み屋がこんなに繁盛しているのだから、代行運転は儲かる、と思い、始めた。時期も良かった。これから忘年会のシーズンとなる。
当事、島根県出身の総理大臣、竹下昇が誕生した。そこで、目立つだろうと、「総理代行」と命名した。早速スナックに営業を開始。初日の売上は5千円だった。これでやっていけるのか、と相棒は不安になる。
「だいじょうぶ。明日になれば分かる」。
翌日は2万円の売上。それでも経営上は成り立たない。
「初日が5千円、次の日が2万円、その次は4万円、こうして倍々で増えていけば、何年後かには株式の公開が出来るじゃないか」。
まず、100万円貯めることを目標にした。100万円はわりと簡単に貯まった。次は300万円を目標にした。こうして代行運転が軌道に乗り始めたとき、青山さんは結婚した。式場での挨拶、このとき青山さんは周りを驚かすような挨拶をする。
「今日で代行は止めます。明日からは昼間の仕事をします」。
社員は誰も知らなかった。始めて聞いて、ただびっくりした。
「250万円の元手がある。しばらくは食える。何をしたら良いか皆で考えよう」。
見通しの無い考えに、社員は生活の不安を覚えた。誰も付いてこなかった。いや、一人だけついてきた。同級生の専務だった。どこまでも彼は「泣かせるヤツ」だった。
事務所や車など、代行運転を継続するのに必要なものは、残った社員にすべて無償で譲った。このとき代行運転の会社は、既に充分収益が出る体質になっていた。
郵便局の古里便を開始
手元には250万円あった。再び相棒と二人で朝まで語った。どこまでも明日を、未来を見つめている人だ。朝まで語り合う、いつか忘れ去っていた青臭い言葉ではある。青山さんはきっと、楽しくて、楽しくて、語り合っていたら、朝になっていたのだろう。
「語り合おう!」と形だけ真似をして、夜遅くまで引っ張り回す経営者もいる。勉強会と称して、泊り込みで拘束したがるセミナーもある。「形」を決めておかないと、中心者は不安なのだろうか。しかし、所詮「形は形」だけのもの。大事なのは「こころ」である。青山さんには、その熱きこころがあった。
小人数で全国に営業する手立てとして、郵便局の利用を考えた。古里の名産品を全国に送る、ユーパック。生産者と郵便局を仲介する、これならバンバン儲かるだろうと。事実バンバン注文がきた。売上の3割が手数料で入ってくる。おもしろいほど儲かったが…。急に注文が止まった。暇になった。忙しいのは中元と歳暮の時期だけだった。暇なときには、また朝まで語り合った。
あるときクレームの電話が入った。大阪からである。
「お宅、島根県やろ!なんでそんな処で商売しとるのや!3千円の品を注文をして、電話代が何百円もかかるなんて、アホらしいやないか!」
ごもっともである。当事の市外電話は高かった。大阪〜松江間が3分420円?(正確な金額は忘れた。青山さんは正確な金額を言った)だった。当事はフリーダイヤルのサービスが無かった。
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