コラム/建築革命宣言!
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第19回

ビーアイジーグループ代表 青山洋一の挑戦(5) 山中省吾 2000.02.14

私たちの業界はどうか?
 ここで、私たちの仕事、建築設計事務所を振り返ってみよう。儲かってしょうがない、という事務所はあまり聞かない。少なくともオープンネットのメンバーの中からは、そのような声はあがってこない。逆の声は時々入ってくる。私自身の事務所(山中設計)も創立以来、12期目に入ったが、儲かってしょうがない、という年は一度も無い。
 では、昔の事務所はどうだったか。儲かってしょうがないという事務所もあったようだ。昭和20年代、30年代の頃だと思う。その頃、米子にはH設計という事務所が、ただ1社あっただけだという。公共から民間まで、すべて独占状態だったらしい。そこしか頼むところが無いのだから、儲かってしょうがなかったようだ。
 土木設計はどうか。ここは良い(良かった?)ようだ。米子にも高額納税の常連が数社ある。ほぼ100%近く公共物件の受託である。数年前にある社長から、儲かってしょうがない、という話を聞いた。建築設計とはまるで単価が違う。年に何人か、建設省から一級建築士の派遣要請がある。土木設計の事務所には一級建築士がいたとしても、飾り物の場合が多い。そこで、建築設計に出向を要請する。年間800万円(1人)が相場ということだった。土木設計事務所は、建設省から2000万円(1人)もらう。差し引き1200万円(1人)の荒利だ。年間5人派遣したら、6000万円の荒利だ。これなら儲かってしょうがないだろう。しかし、公共工事が終焉するのも、もうまもなくだろう。
 今は見る影も無いが、ゼネコンも良い時期があった。あるマリコン(海の工事専門)の営業課長は、最大で60%の荒利を出した現場があった、と話してくれた。昔、自分が現場担当をしていたころはね、とそのころを懐かしんでいた。戦後の復興、高度経済成長を通して、土建屋が雨後のたけのこのように、ゼネコンに成長した時期もあった。

転機となった移動体通信
 美味い話しは長く続かない。昇りきったジェットコースターは必ず落ちる。この変化とスピードにどう対処するか。ここに経営者の手腕が問われる。
 第二電電の事業が順調に推移していたとき、携帯電話の販売が持ちあがった。当事の電話機は20万円もする高価なものだった。しかも、まるで弁当箱のように大きい。売れない代物だった。まだ時代が到来していなかったといえる。今日のようなブームを青山さんも予期していなかったようだ。
 そのようなとき常務のAさんが、次は携帯電話の時代が来る、と言い出した。
 「20万円もするようなヤツ、なにが売れるかい!アホとちゃうか。通話料もバカ高い!やっと売っても2万円しか入ってこん。割りに合わん」。
青山さんは一蹴した。ところが常務はガンとして聞かない。絶対やる、絶対いける、と言う。あまりの熱意に青山さんは、常務に携帯電話の販売を任せたが、これが後に幸運をもたらし、株式公開まで一気に駆け上がることになる。
 ビーアイジーグループとして華麗に船出した青山さんは、スタート直後からジェットコースターの上り坂を楽しんだ。しばらくは続きそうに見えたこの坂も、やがて頂上が見え始める。次は下り坂が待っている。それはいきなり来た。平成4年の頃だった。
 第二電電が、半年先にコミッション料を3分の1に引き下げる、と言ってきた。
 「うわあー、えらいこっちゃ。シフト、シフト。第二電電では食えんようになる。携帯にシフト、シフト」。
 出張所はビルの中に事務所を構えていた。第二電電は出向く営業なので、それでも良いが、携帯電話は売れない。駅前など好立地での店舗展開が必要になる。半年間で如何に業態を変えるか。ここで青山さんの信条である、変化、スピード、元気が遺憾なく発揮される。
 出店コストは高い。駅前など人が集まる場所でなければ売れないから、尚更だ。大阪の一等地に出店を計画したときなど、敷金、礼金で1億円もの費用が必要だった。断念して、東海道に向かった。東海道は山陰に似て、敷金が安かった。北陸に出店したときは、大手資本の店に囲まれた。青山さんは、弱小資本の弱さを痛感した。
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